『ずっと怪獣が好きだった』に押井守対談

ずっと怪獣が好きだった―造型師が語るゴジラの50年(amazon.co.jp)

著者の品田冬樹氏は、『紅い眼鏡』などでプロテクトギアの造形を担当した人物。こちらの本に、“押井監督,怪獣を語る 押井守氏との対談”という対談が掲載されているとのこと。確保したら詳しいリポートを掲載したい。確保に成功したので、こちらの対談の内容を紹介する。

話の内容は、「なぜゴジラは海からやってくるのか」「ゴジラは、日本人の戦争のトラウマ」などというように、先日行なわれた『Howling in the Night2005~押井守、《戦争》を語る』の内容と結構重なるところがあり、押井氏は怪獣映画を自分で撮る意欲を語っていた。13Pにわたる結構長い対談だが、その一部を下に引用する。

品田 一九九二年頃、『ケルベロス』の後に、押井さんが撮ろうとした実写怪獣映画がありましたね。『〝D〟』という。ストーリーは押井さんと伊藤和典さんでしょうか。
押井 ああ、脚本までできたけどね。
品田 あの企画が実現していたら僕が造型を担当するはずでしたが。あの話は、人類がえらいことになりますよね?
押井 そう。『〝D〟』は地球の抗ガン剤っていう設定なんだよね。人類は駆逐すべきガンにすぎないんだ。
品田 怪獣の設定って、どのように考えられました?
押井 あの頃、鳥に熱中していた時期で、鳥をいろいろ調べてたんだよね。鳥の「渡り」っていうシステムに興味があって、生物兵器のダイナミズムってなんだろうと考えたときに、ひとつは「群れ」であると決めたんです。単体じゃあ、従来の怪獣映画を越えられないと思ったわけです。生態圧、淘汰圧っていうのは基本的に「数」なんだね。数で圧倒した種が残るということ。繁殖力旺盛で、増殖していくっていうのが怪獣の絶対条件だと思つたんだ。
品田 それは、ここまで繁殖した人間に対するライバルっていうことですね。
押井 そう。人間自体が地球環境にかけた淘汰圧ってなんだろうと考えたら、「数」だったんですよ。ウイルスや昆虫を除けば、人間は地球上で最も個体数の多い「種」だからね。だから人間の最大の武器は頭脳じゃない、数なんだ。人間だけは、極地から赤道直下まで場所を選ばず分布しているしね。
『〝D〟』の怪獣はワイバーン(飛竜)にしたんだよね。なぜワイバーンかというと、まず数で勝負するって言ったけど、人間は「数」 っていうと何をイメージするかってところから考えたんです。人間が一番恐れを抱く「群れ」っていうのは、やっぱり鳥の群れだと思うんだ。なぜなら、破滅は必ず「空」からやってくる。破滅が海からやってくるっていうのは、なかなかない。でもそれって、日本の怪獣映画の伝統だよね。

押井 特撮映画を作る人間は志を持たなければいけないと思ってるんだ。今はどっちかというと、先人の遺産を消費してるだけでしょう。本来、作り物を作る人は志を持つべきなんだ。なぜなら、ジャンルの存亡がかかってるからだよ。志のない作品を作れば、いくらなんでもジャンルは終わるぞ、と。しかも実際には、終わらせることもできないからね。永遠に、死人にカンカン踊りを踊らせる落語の「らくだ」みたいな話になってしまうんだ。映画ってさ、何かを立ち上げるか、何かを終わらせるしか、どっちかしかないんだよ。映画に求められているのはそこだけだよ。だから、『ゴジラ』にとどめを刺したいんだったら、いつでも声かけてって言いたい。俺はとどめ刺すのは得意だから。
品田 まあたしかに、一度とどめを刺しても、また別の誰かが続けたりもしますしね。そういうとどめを刺す怪獣映画も必要ですね。
押井 終わってしまったものに、いつまでもカンカン踊りを踊らせるのは、キャラクターを作った者とすれば、耐えがたい。どこかでとどめを刺さなければいけないんだ。同じものをファンやオタクは欲しがるけれど、それこそ永遠に文化祭の準備みたいなもので、いつかは終わらせなきゃいけないんだ。それが『ビューティフル・ドリーマー』(『うる星やつら』劇場版第二作)のテーマだったんだけど。
品田 技術者ってプレイヤータイプですから、永遠に「文化祭の前日」っていう状況は好きなんですよ(笑)。毎日が非日常的な、特別な日というのが。
押井 怪獣映画って、まさにそうだよね。だから年々怪獣の数が増えてきたり、X星人がでたりするんだよ。言ってみれば、「文化祭の準備が永遠に続く」っていうのは、特撮映画の世界を描いているんだよね。僕は文化祭を立ち上げる役割であっても、同時に「永遠に続く文化祭の準備」を終わらせる立場の人間なんだよね。立ち上げるか終わらせるか、どっちかしかできないよっていう。