脱線事故とJR西バッシング

Irregular Expression 脱線事故をJR西日本バッシングのネタにするマスコミ

最近、文章を書いてネットに上げる意欲というものがさっぱりなくなってきているのだが(野良犬の塒は昔に比べて面白くなくなったと思っている人がいるだろう。その通りである)、こちらのテキストを読ませていただいて書きたくなった。

最近、マスコミのJR西叩きが著しい。普段いちいち報道しない、ちょっとしたオーバーランなどの事件まであげつらったりしているし、その典型がボウリング騒ぎだ。脱線事故があって多数の死者が出ていたのにもかかわらず、JR西の社員がボウリングや宴会で遊んでいた、しかもそれの参加者の一部は事故のことを知っていた、というのだが、そもそもそれに参加した人々は休みだったし担当場所も違った。休みに何をしようが勝手だ。それに彼らの仕事はレスキューでも医者でもないのだから、「事故があったら緊急招集がかかる可能性があるので待機する」などということを心配する立場ではなかった(実際招集されなかった)。

確かにこのボウリングの話は、後から冷静になって考えると“不謹慎”とは言われても仕方の無いものだろうが、TVニュースにトップで紹介され、袋だたきにしなければならないようなものだろうか? 三菱ふそうの欠陥隠蔽が発覚したからといって、その時会社を休んで遊んでいた社員をいちいち調べただろうか? こういう“悲劇”の報道番組の合間に、CMを入れて“商売”をするマスコミは不謹慎ではないのか?

マスコミは悲劇が大好きだ。泣き崩れる遺族などは実に絵になるし、ドラマティックだからだ。そしてマスコミは、その時悪役にできる存在がもっと大好きだ。それについて報道すれば、怒りをぶつける対象を探している視聴者が見てくれるからだ。

色々な情報を見ていると、今回の事故は、JR西という会社のシステムの歪みが引き起こしたものと言えるだろう。従ってこの事故から教訓を得るには、どういうシステムが事故を引き起こしたのか、どこで歪みが発生したのかを考えていかなければならない。社員一人一人を責めて何の意味があるだろう? 勿論社長一人の責任でもない。感情的になった遺族につめよられるJRの社員を見たとき、遺族に同情するのと同時に、JRの社員にも同情すべきではないのか?(その人物の責任ではないのだから) 日本人は昔から、何か事故があると「責任者は腹を切れ」と言い立てる。だが、その事故を引き起こしたシステム、社会構造を追求しようとはしない。こんな話が何かの本に書いてあったのを思いだした。「イギリスは、1666年に発生したロンドン大火の後、不燃都市構想の下に、火災に耐えうる都市を再建した。日本では江戸で大火が起こる度に、火元になった人間を火炙りの刑に処した。そしてまた燃えやすい町を再建した……」