先日までやっていた『絶対少年』などの話を見ていると、最近の現代劇では携帯電話というアイテムをどう物語に取り込むかというのが重要な要素になっていると言えるだろう。あるいは物語によっては、現代劇(時には近未来)なのにもかかわらず、携帯電話の存在をほとんど無視してしまっているものもかなり見受けられる。つまり、物語で携帯電話を扱うとなると、大幅にそれに依存するか、ほとんど無視するかの二者択一になってしまうようだ。
これは、人と人とのコミュニケーションというものが携帯電話(メールを含む)で何から何まで済まされる状況になってしまうからであり、別の状況(直接的な触れ合いなど)を主題に描こうとすると、どうしても携帯電話を排除する傾向になってしまうらしい。
私個人としては、この状況を招いてしまった携帯電話というものは、過去50年ほどの歴史の中で、物語にとって最悪の発明のような気がする。
何というか、風情がない。「いつでもどこでも通信ができる」というのは限られた者のみの特権で、だからこそ物語たり得たのではないだろうか。古典的な物語にとっては、携帯電話は邪魔な存在でしかないようだ。
グラハム・ベルが電話を発明したときも、似たようなことを考えた劇作家がいたのだろうか。
谷口
どうもお久しぶりの谷口です。なるほど、携帯電話が物語の風情や進行を阻害していると・・・。
推理小説が好きで昔よく読んだんですが、シャーロック=ホームズ等を読んでいると物語中でホームズがよく電報や郵便、新聞広告を利用しているシーンがあります。携帯電話が当たり前の現代からみればひどくまだるっこしいシーンとも取れますが、そうしたシーンでこそ物語の風情が生まれる物なのでしょう。ホームズの物語の舞台は1888年、ベルが電話を発明したのが1876年ですから、発明はされていましたがロンドンで普及する直前だったのでしょう。ただ電信から電話、そして電話から携帯電話と道具が進化する度毎に物語が描く世界観が進化(変化と言った方がいいのかな)していくのでしょうから今は丁度その過渡期なのでしょう。そうした意味で物語を眺めて行きたいと思ってもいます。