こちらの文章は、全文がイノセンス創作ノート 人形・建築・身体の旅+対談に収録された。
【《攻殻1について》コンピュータと結婚する女なんて信じてもいないことをやるな、という趣旨の発言をした某プロデューサーもいたようですが、実は本気も本気、大真面目だったのです。】とまあ、とにかく面白い。手に入れることが出来る人は限られると思うが、可能なら是非入手しよう。
【IGの石川プロデューサーから「攻殻2」をやれと言われたときは実は相当に困惑しました。《中略》犬と散歩して時間を稼いでいたのですが、そうこうするうちに突然閃いたのが「人形」だったのです。】
【「人はなぜ人形を作るのか」とはつまり「人はなぜ自らを客体化するのか」ということであり、もしかしたら人間がもっとも早い段階で自己を客体化したものこそ人形なのではないか、《中略》「人の形を写し取るという行為に伴う根元的な禍々しさが何に由来するのか」という主題の方向性もこのときに決めました。】
【《魂の無い人形をアニメーターに描かせて動かすのが》魂のないものを魂のないものとして表現しろ、という要求が可能なのかどうか、これはきわめて興奮できるテーマであるように思えました。《中略》アニメーターに対する強烈な愛憎を抱き続けてきた僕としては十分に興奮できるシチュエイションとなるに違いありません。】
【これはアニメ監督にのみ許された特権的主題であることは間違いありません。ワハハハ、ざまあ見ろの気分です。《中略》僕の実写作品を道楽の産物だと思ってる人も多いでしょうが、実はこういった認識をステップに映画について考え続けるためにも必要な行為なのです。反省して下さい。】
【ちなみに「人形なんだからCGでやればいいじゃん」と言ったお馬鹿なプロデューサー(前出)もいましたが、前述した理由で、鉛筆で書こうがCGIでやろうが「人の形を写し取る」という行為としては全く同じなのであって、「ナマの人間」を光学的に写し取る行為との隔たりに比べれば同一と言ってよく、であるなら表現力で圧倒的に優位にあるセルアニメ方式のキャラクターを選ぶのは、いわばあったりまえなのです。《中略》こんな程度の認識もないということは、彼が本質的に映像に興味も好奇心も探求心も持ち合わせていない「世にも希なる映像オンチの映画プロデューサー」であることの何よりの証拠でしょう。日本海溝の底で三年ほど座禅を組んで反省していただきたいものです。】
【《札幌の美術館でロケハンをした後》ロケハンにスケベゴコロや貧乏人根性は禁物であり、一番気に入ったものを見たら他は見ない、忘れる、なかったことにする、というのも重要なことです。あとはビール工場で盛大に食べたジンギスカンしか覚えていません。】
【《伊豆高原の美術館群にて》敵役の住まう「人形の家」について考えあぐんでいた僕は、同時に見て回ったオルゴール博物館の巨大自動演奏器とドールハウスを組み合わせることで「巨大オルゴールの館」というディテールをデッチ上げることに決めました。人形になりたい男がデカいオルゴールの中に住んでいる、という思いつきが気に入り、例によってその後は上の空でしたが、川井憲次がデッチ上げるであろう怪しいオルゴールのテーマを想像しつつ、お土産のチョコレートを買い込んで帰りました。】
【《自動人形 を作中に出すことを断念したことについて》もっとも、オートマタの魅力を全て諦めたわけではなく、後にスキを狙ってバセットハウンドのオートマタを3Dで作らせることになりますが、何処に登場するかは完成後のお楽しみです」
【《作画監督がロケハンに参加しなかったことについて》その理由としては、現在抱えている他の作品が終わっていないから、火の車だからというもっともありがちな状況が存在しているわけですが、僕は真の原因は彼らのフットワークの悪さ、ケツの重さにあると考えています。実に困ったことであり、憂慮すべき傾向であると思います(状況が火の車なのに社員旅行だけは参加したKよ、お前のことだ)。】
スタジオジブリの会報 熱風の第三号が出ている。こちらにまたイノセンスに関する押井氏の連載があるので一部を引用してみる(とか言いつつかなり長くなってしまった)。
今を去ること三十余年、古本屋で手にした写真集の中で出会って以来、恋い焦がれてきたベルメールの人形にようやく会える-そう思うと、月並みな表現ですが胸が高鳴りました。血圧も上昇していたに違いありません。(中略)かつての夢見る映画青年は今や禿げかけた映画中年であり、さらに正確に言えばただのオヤジに成り果てていましたが、なにしろ彼女は人形ですから、写真集の中に見出した時の姿のままです。感動などという言葉を聞くと思わず茶化したくなる因果な性分なのですが、まさしく感動の再会でした。ああやっと君に会えたんだね、などと口走って抱きつきたい心境でしたが、傍らには体格のいい学芸員のお姉さんが怪しい日本人が何かやらかさないかと見張っているし、そんなことを実行すれば大スキャンダル必至ぐらいの常識は持ち合わせていたので、もちろん自制しました。スタジオジブリの会報 熱風の第四号が出ている。地方在住でこれを見ることが出来ない人のために、また押井氏の記事をあちこちつまんで引用。当然ながら原文はもっと長い。人形が美しいのは、それが人形であるから-つまり人間ではないからです。
もちろん全ての人間が美しくないというわけではありませんが、まず地球上に棲息する人間の半数は男であるという理由によって美しくなく、したがって自動的に脱落します。美しいか否かという判断の基準に性差を介在させることは、美学的観点からは問題があるかもしれませんが、五十余年の人生で美しい男に会ったことがないのですから仕方ありません。残りの半数-つまり女性の中には稀に美しい人、美人と呼ばれる人間も存在しますし、真の美人は歳をとっても美しいのですが、残念ながら死んでも美しいというわけにはいきません。死体が美しいのは小説の中だけであって、現実の死体は決して美しくありません。つまり人間は生きているという一点において美しい存在になり得ない、ということになります。
では人間以外の何が美しいのかといえば、これはもう人間以外のほとんど全てが美しいといってよろしい。木や花は勿論のこと、犬も猫も鳥も魚も虫も生きていますが、実に美しい姿をしているし、その動きも人間のみっともない無駄だらけの動きに比べれば洗練の極にあることは、動きのプロであるアニメ監督の僕が保証します。さらに言うなら、その死体ですら-腐敗という中間形態はあるものの-美しいことは化石を見れば直ちに了解できるでしょう。鳥や獣を「壮大な無意識の世界の住人」と呼んだのは先に挙げた言乗と同じ、ロマン派の詩人たちでしたが、彼らは無意識の存在であるがゆえに意識に囚われた人間の日た美しく映り、翻って意識そのものである人間はその埼外にある一つまり人間は人間であるがゆえに人間を美しいと感じることができないのだ、ということになります。美は映すものの心にあり-とは、近代的自意識という文脈に沿って解釈するならばそういうことになるのです。
前回登場した某プロデューサーのように、オレはそうは思わねえ、という方には風呂上がりに自分の姿を鏡に映して見ることをお奨めします。それでもなお美しいなどと考えるなら、脳が腐っていることを疑うべきでしょう。ミロのビーナスを美しいと感じるには相応の教養やら知性やらの、いってみれば相当に強引なムリが必要なのですが、BACライトニングやタイガー戦車やベレッタF92Sやカラシニコフは子供が見てもカッコいい、美しいと感じるのはなぜでしょうか。もちろん全ての機械や兵器の類いが美しいわけではなく、デザインしか取り柄のないイタリア人の設計した戦車や美意識のカタマリのようなフランス人の作った拳銃などの例外もありますが、おおむね機械や兵器の類は例外なく美しく、あのマスプロの本家であるアメリカの艦上戦闘機ですら美しいのです。
なぜかといえば、機械は機能を追求した結果として作られたものであって、人間的なるもの、つまり自意識とカンケイがないからであり、巧まずして美しいとは、つまりこのことを指しているわけなのです。で、ようやくにして人形の話に戻るわけですが-人形は人間が作り出したものであり、機能の追求とも無縁であり、しかも紛れもなく人間の形をしています。その限りでいうなら人間的なものであるばかりか、人間の意識とも深く関わっており、なんなら人間の意識の反映そのものといっても過言ではありません。その人形が美しいのは、いったいなぜなのでしょうか。
もちろん全ての人形が美しいわけでなく、大多数の-つまりキューピーやバービーや綾波レイちゃんのフィギアを美しいと僕は思わないわけですが、人の形をしていながら、稀にそれこそ奇跡のように美しいベルメールのような人形が存在するのはなぜなのでしょうか。生命のない無機的な像が、常軌を逸した恋の力によってついに生命を獲得するに至ることをビュグマリオニズムと呼ぶそうですが、ベルメールの人形は、むしろ生命のある対象を生命のない物体へ変容させる逆ビュグマリオニズムに拠るものなのかもしれません。それを美しいと感じるのは、「人間」というパーツを自在に用いることで人間を幾何学しようとしたベルメールの夢想が、〝死″と裏腹な形で観念世界の極北を志向していたからなのかもしれない-などというカッコいい理屈を思いついたのは、もちろん日本に帰ってからのことでした。
カラダを幾何学したら美しい、などという発想は孔子さまが聞いたら激怒するでしょうが、僕は風邪をひいたら速攻で点滴をするような人間であり、その点滴に快感を感じる人間でもあり、さらに言えば点滴を内蔵したいと考えるような人間でもあり、なにより孔子さまの弟子ではありませんから、積極的に主人公のカラダを幾何学することに決めました。さらに人形のふりをする男、義体と電脳化によって人形になりすます男-つまり死んだふりをしている男という発想を仇役のキャラクターの設定に流用することにしました。死んだふりをすることによって、逆ビュグマリオニズムの淫蕩な観念性を極めようとする男。その夢が絶対に破られないためには、自己幻想を徹底させることしかなく、彼は主人公たちの電脳にハッキングして仮想体験に捲き込み、人間と人形との境界を唆味にしてしまうことによって目的を達成することになるのです。実にイヤな野郎です。
一方でヒロインはといえば、カラダを幾何学するどころの騒ぎでなく、存在自体が幾何学になっていますからカラダなど要りません。
カラダの幾何学をヤリ過ぎて人形のように美しい-つまり人間以外の、人間以上の、人間でない何かになりつつあることに悩む主人公と、幾何学そのもののヒロインの愛の物語。これに同じく幾何学し過ぎでアタマがおかしくなり、人間であることを超越したと自惚れた挙句に他人様のカラダを拝借する悪党が絡み、あとは肉体の崖っ淵にたつ老人や、カラダ幾何学絶対反対少女や、トドメに無意識界の住人である犬が登場すれば完璧です。
なにしろあのベルメールが霊感を得たという、球体関節人形の元祖があるというのですから、ベルメールの人形に霊感-というより恋慕らしき感情を抱きつづけた僕が行かないわけにはいきません。どうせこの機会を逃せば一生行くこともないに違いないし、ベルメールを理解するためにも、その同じ人形を是非この目で見る必要がある、とそう考えたからなのでした。それは想像したよりもずっと小さな人形でした。
仔細に眺めれば肩や膝はもちろん、手足の指の関節にいたるまでが微細な球体によって繋がれたその人形は、まごうことなき球体関節人形であり、ン百年も前に作られた(聞いたのですが忘れました)人形としては驚異の技術であり、精巧そのものといってよい見事な造形でした-がしかし、日を皿のようにして見つめつづける僕の頭蓋の中には何の感慨も湧いてきません。そんな筈はない、これはあのベルメールが霊感を得た人形なのだ、球体関節人形のルーツなのだ、何も感じないわけがあってたまるかーと思いつつ、しかし結論として僕の頭韮に浮かんだのは「なんだかGIジョーの中身みたいだ」という感想だけでした。誰も言葉を発しないのは、彼らが眼前の人形に魅入られているのか-それとも僕と同様の心理的葛藤を抱えて戸惑い、アセり、その内心の動揺を隠すために撮影に集中しているふりをしているのか、それは今に至るも謎のままです。僕はカメラアングルの指示など与えつつ、もしこの場に不謹慎を絵に措いたような、たとえば作画監督のKあたりがいたとしたら、「なんかGIジョーの中身みたいスね」と明言したであろうことを考えて内心安堵しっつ、この時ばかりは尻の重いアニメ一夕ーの習性に感謝していました。
そもそも人形なるものが人の形を写したものである限り、それが博物館の奥深くに所蔵されるものだろうと、ワンフェスで売買されるようなオタッキーなアイテムだろうと、どこかしら共通するいかがわしさがあるものであり、人間が聖俗を併せ持つ不可解な存在である限り、その形を写した人形もまた同様に不可解な存在である他ないのだ-と、僕の妄想エンジンはさらにギアをシフトアップしつづけます。
GIジョーだろうが綾波レイのフィギアだろうが、百歩譲ってそれがガンプラだとしても、それが核戦争の廃城から掘り出され、百年彼の人間がそれを眺めたとしたら、美しいと思うかどうかは別として、それはただいま現在の付加価倍やら商品価情やらを拭い去られた、一種の呪物足り得るのではないか-何故なら、それは呪物が呪物たる根源である人の形を写しているからに他ならない。そうだ、そうに違いない、そうに決まった。だから僕があの至宝の人形から「GIジョーの中身」を連想したことも、別に不当には当たらないのダーと納得して博物館を後にしたのでした。
話は前後しますが、僕らはボーデ博物館を訪れる前夜、ベルリン市内で開催されていた「身体の世界展」なるものを見学したのでした。この展覧会はどうやら世界中を巡回しているらしく、実は数年前に横浜で開催されたこともあるので、あるいは御存知の読者もいるかもしれません。
プラスティネイションとか言うらしいのですが、人間の死体に特殊な処理を施してタンパク質やら体液やらを全て化学樹脂に置換する技術を駆使し、これを縦横にスライスして見せたり、これまた特殊な技術で死体から水分を完全に取り除いて人間ジャーキーを製造し、これを縦に開いたり、引出しをつけて中を覗かせたり、カラダを置き去りにして神経だけが逃げ出すポーズをつけたり、テーブルを挟んで人間ジャーキーにチェスをさせたり-要するに人間のカラダをとことんオモチャにすることを目指した巡回展なのです。会場は盛況といってよく、世の中は不誰憤な人間で一杯であることを証明していましたが、なぜこんなものを見に行ったかといえば、それは前にも触れましたが、今回の映画が人間の身体をテーマにしているからであり、スタッフに是非とも見ておいて欲しかったからに他なりません。
ちなみに前回横浜で見たときは、同行したのがそれこそ不謹慎を代表するような特撮屋さんだったりCG屋さんだったりしたので、全員が大ハシャギでした。
先にも触れましたが、様々に加工が施されているとはいえ、冷静に考えれば展示されている全てが死体なのであり、意識的にハイになっていなければ人間が人間の一次加工品を眺めて回るという異様さに耐えられるわけがありません。会場は異様な陽気とでもいうべきテンションに包まれていて、あちこちで笑い声も聞こえます。僕は馬に乗った人間を、そのまま丸ごと、人馬一体のジャーキーにした巨大なオブジェに圧倒されたりしていたのですが、0さんは会場の一隅に並べて展示された「胎児のジャーキー」に結構深刻なダメージを受けたらしく、出て行ってしまいました。人間の存在などたかだかこれだけの-要するに物理的カラダでしかない、という底なしのニヒリズムはカラダにも精神にも、敢えていうならその相克にも執斉しないニッポン人には理解しにくいのですが、その情熱の総貴とでもいうべきものには、圧倒されました。
人間は人間についてあまりにも長いこと考えつづけ、
ついに人間について何も語れなくなってしまった。人問
はむしろ傍らにいる動物と語ることを目指すべきだった
一概らこそが人間が何者なのかを語ってくれた筈なのに。人間が人間について考え、その形を写し、世界そのものまで人間になぞらえて作り変えてしまった挙句の果てに、ついには人間について語ることもできず、ただその形を写し取る情熱だけがいまも人間を支えている一文学も絵画も映画も全てはその情熱のゆえに存在し再生産されているのだとしたら、僕らの営為は人形を作るという原初的な営為に集約されるのかもしれません。