(第2回へ)
ニース空港は混雑していた。
ポーランドに帰るマウゴジャーダやエステラさんと別れ、僕とバンダイ三人組はドゴール空港へ向かい、さらに僕は日本へ戻る三人組とも別れて「人狼」プレミア上映のために単身LAへ向かうのである。
エールフランスのカウンターでのチェックインに膨大な時間を要し、飛行機は大幅に遅れ、シャルル・ドゴール空港でのトランジットはこの時点で既に危うかったのだが、なんとか乗り換えの30分前には到着することができた。
飛行機を降りるとエア・フランスのお姉さんが迎えに来ていて、LA便に乗る奴はワタシについて来いと叫んでいた(この程度の英語なら語学ダメ人間の僕にでも判るのである)。バンダイ三人組とオサラバして、僕は二十人ほどの乗客とともに彼女について小走りに歩き出した。小走りと言っても、何しろ先頭を歩くエア・フランスのお姉さんは背が高くて足も長いから、平均的日本人よりやや小さめの短足人間である僕にとっては全力疾走に匹敵する。置いていかれては悲惨なことになるから必至に後を追ったのだが、いつのまにかビリケツになっていた。
ふと前をゆく親子を見ると、なんとオヤジの方はデビッド・リンチであった。
デビッド・リンチにくっついていけば自動的にLAへたどり着く─僕は勝手にそう決めて、彼の後をひたすら追った。もちろん当人はそんなことなど知る由もないし、後ろにくっついてくるチビの日本人などそもそも視野にすら入っていないだろうが、とにかくそう決めたのである。
ほどなくドゴール発LA行きのゲートに到着し、搭乗券のチェックが始まった。
僕はすでに決めたとおり、デビッド・リンチの背中にくっついて順番を待った。
そのまま飛行機に乗れれば、何の問題もなかったのだが…。
僕のチケットを見るなり、係員のあんちゃんの目が鋭く光った。
「あんたカードは持ってるか?」
「カードって何それ」
「グリーンカード。アメリカの」
「んなもん持ってないよ」
「入国ビザは?」
「ないよ(だって四日しか居ないもん)」
「帰りのチケットは?」
「ない」
「じゃ、あんたあの飛行機には乗れねーぜ」
「えええええええええええ!」
何で、どうして乗れないの?
あんちゃんが言うには就労カードかビザか帰りのチケットを持っていなければ飛行機には乗れない。それが規則なんだ、ということらしい。
そう言えば…バンダイのM君が別れ際に気になることを言っていたのを思い出した。
帰国用のチケットはLAでI.Gのイシカワから渡してもらう手筈になってますが、もし手続きでモメるようなことがあったら、このメモを見せて下さい─と、そのメモはどこだっけ。僕は慌ててカバンから引っ張り出したメモをあんちゃんに見せた。
「帰りのチケットはLAで貰う予定なんだよね、ホラこれ」
あんちゃんはメモを一瞥した。
「ダメ」
「ダメって何でよ」
「とにかくあんたはこの飛行機には乗れないの」
あとは何を言おうが喚こうが、聞いてすらくれない。
そうこうするうちに、飛行機はデビッド・リンチを乗せて飛んでいってしまった。
万事窮すとはまさにこのことであろう。
気がつけば僕はバカみたいに広いシャルル・ドゴール空港にただ一人。
荷物は飛行機と一緒に飛んでっちゃったし、首からブラさげたカバンにはパスポートと、もはや何の役にも立たないチケットと喉飴が入ってるだけ。
いやそれどころか…助けを求めようにも僕はこの国に知り合いなんかいないし、僕を待っているであろうイシカワやアメリカの知人の連絡先も知らないし、そもそも電話をかけようにも、現金は一フランも持っちゃいない。
じんわりと全身に汗が流れ始めた。
とにかく冷静になろうと、僕は待合所のベンチに腰掛けた。
煙草を一本吸いながら何故こんなことになったのかを考えた。
帰りのチケットがなければ搭乗できない、という話は遥か以前に確かに聞いたことがある。そういう意味ではあのエアフランスのあんちゃんの対応は間違ってはいない。
がしかし、間違ってはいないが、ではなぜニース空港のエアフランスのカウンターは僕をチェックインさせたのか。あの気の遠くなるような搭乗手続きは一体なんだったのか。
抗議したところで、んなことオレは知らねえ、とあのあんちゃんは言うに違いない。
それにしても、である。
もうちょっと何とかっていう対応はないもんだろうか。
どこに行って誰と話して何をすればいいのか、教えてくれてもいいんじゃなかろうか。
だって、片道だけだけどチケット持ってるんだから、一応はお客なんじゃないの。
あんた乗れねえよ、ダメ─それだけってことはないんじゃないの。
あの悪名高い国鉄だって民営化されてからはもうちっとマシな対応を…と考えて、僕はハタと気づいた。
ここは日本じゃないのだ。
あらゆることは自己責任において為されるべきであり、その努力をなにひとつせず、全てを人まかせにして、その結果巨大なドゴール空港で途方に暮れようと、自業自得なのだ。まして一フランすら換金せずに一週間を過ごし、デビッド・リンチの背中にひっついてLAへ行こうなどとは言語道断であろう。
…と考えたのは実は日本へ帰ってからであり、この時の僕は怒りのカタマリと化して煙を吹き上げていたのであった。
がしかし、ニコチンによる鎮静効果であろうか─これから何をどうするか、いかにしてこの窮地から脱するかについて多少は生産的な思考をめぐらして僕は立ち上がった。
バンダイの渡辺プロデューサーを探し出して善後策を練ることに決めたが、何しろ巨大な空港だからその可能性はゼロに近い。もし見つからなかったその時は、自力で全日空か日航のカウンターを見つけ出し、成田行きのチケットをゲットして家に帰ることに決めた。その場合、LAでの予定は全てキャンセルとなり、イシカワは泣くだろうが、全てはいいかげんな手配をしたバンダイの責任なのだ。
僕のせいじゃないもん、と腹をくくると少しばかり気持ちも落ち着いた。
まずはエアフランスのオフィスを見つけ出して一世一代のワガママぶりを発揮し、ゴネてゴネてゴネまくった。エアフランスのお姉さんはやはり少しも優しくなく、早口で英語をまくしたて、その意味するところは半分も判らなかったので、僕は「アイ・ウォント・ミート・ミスター・ワタナベ」一本で押し通した。お姉さんは喚いたり怒ったり電話で誰かと話して笑ったりしていたが、目の前に立ちつづける日本人に根負けしたらしく、ついに席を立ち、僕を連れて歩き始めたのだった。
と、その時、遥か彼方、前方50メートル程の前方の通路をメガネをかけた日本人らしき人物が横切るのが0.4秒程見えたのである。
無論、誰だか判らないが僕は咄嗟に「彼だ!」と叫んだ。
この時点でメガネの男が「ミスター・ワタナベ」である確信はまるでなかったが、人間違いだったら謝っちゃえばいい。
僕が叫ぶと同時にエアフランスのお姉さんはハイヒールでダッシュした。
冷たいお姉さんではあるが、フットワークだけは抜群であった。
そして何と、あろうことか、このメガネ男こそ誰あろう「ミスター・ワタナベ」その人だったのである。
─神よ、不信心神な僕をお許しください。
奇跡というものは確かにこの世にあるのである。
「何してんですかこんなとこで、飛行機乗らなかったの」とかなんとか言いながら歩いてくる「ミスター・ワタナベ」が、この時ばかりはホトケ様に見えたのだった。
で、以下の展開は省略するとして、僕がコーラを飲んでいる間に「ミスター・ワタナベ」はM君をコキ使ってあらゆる連絡や手配を大車輪でこなして、今日の飛行機はもうないので、今晩宿泊する空港内のホテルのチェックインまで済ませてくれた。時間経過とともに僕の怒りも復活し、「ミスター・ワタナベ」は神様ホトケ様から単なるいい加減な手配をしたプロデューサーに転落していたが、それでもありったけのフランをかき集めて僕に渡し、元気に生きて下さい、というようなことを言い残して日本へ去った。
貰ったフランは全部使ってやる─そう決めていた僕は豪華なホテルの一室でシャンペンを一気のみして安らかに眠り、翌日LAへ飛んだ。
めでたし、めでたし─と思ったら、まだ先があったのである。
神よ、貴方はまだ私に試練を与えられるのですか?
LAで通関した僕を待ち構えていたのは、今度は若い黒人警官であった。
「お前、荷物はどうした?」
僕はシャルル・ドゴールで荷物と泣き別れしていたので、無論手ぶらである。
「ないよ」
「ないわけねーだろ。お前手ぶらでアメリカに来たのか」
昨日からのトラブルでいい加減うんざりしていた僕は、面倒臭かったので、イエスと答えた。
「んなわけあるか!」
「荷物はないけど、ゲイトに友達が迎えに来てるから」
「ホントかよ」
僕は警官とともにゲイトへ向かった。
誰も僕を待っていなかった。
(後に判明したのだが、迎えに来ていたイシカワはスタンドでコーヒーなんか飲んでいやがったのだった─)
警官の僕に対する疑惑はこれで決定的となった。
パスポートを取り上げ、どこかへ連れて行こうとしているらしかった。
一瞬だけ走って外へ逃げようかと思ったが、警官の腰の拳銃(おそらくグロック17であろう)を見て、考え直した。こんなところで撃たれたのでは死んでも死にきれない。
「ちょっと待って!」
僕はありったけの語学力を総動員して、警官に事情を説明した。
僕の弁明に説得力はなかったかもしれないが、無効になった航空券には説得力があったらしい。
そういう事情があるなら始めから言えばいいじゃねえか、という顔をしながらも警官は僕を釈放してくれ、僕はようやく自由の身となったのだった。
いま、こうして書いていて思うのだが、僕は実にラッキイであった。
下手すればフランスから強制送還、あるいはLAで射殺されていたのかもしれないのである。
僕の守護霊だか守護天使だかに深く感謝すると同時に─エアフランスなんか二度と使うもんか、と硬く決心したのだった。
いや、もちろん全部人任せにしてた僕が一番悪いんだけどね。
おしまい。